そもそも2000年代後半から最近までは、インフレ率が低すぎることが各国で問題視されていました。2008年に起こったリーマンショックをきっかけに、世界は低インフレに見舞われていたのです。
2020年初頭になると一転して、世界はインフレの波に襲われました。要因として真っ先に思い浮かぶのは、ロシアによるウクライナ侵攻でしょう。実際に、ロシアの原油や天然ガスなどの燃料資源やウクライナの小麦などの食糧の供給が滞ったことにより、それらの価格は高騰しました。
しかし、戦争はインフレの主原因ではありません。米欧のインフレは戦争前の2021年春から既に始まっていたためです。戦争も物価高に影響を与えてはいたものの、2022年夏の米欧インフレ率が前年比8〜9%に対して、戦争の影響は1.5%程度のものだったのです。
インフレの主原因が戦争ではないとすれば、当時他に何が起きていたのでしょうか。2021年付近で発生した出来事といえば、新型コロナウイルスによるパンデミックがあります。インフレの主原因は、パンデミックによるものだったのです。
パンデミックは、世界の生産設備や物流拠点などを直撃し、グローバルな供給網を寸断させました。供給不足におちいったことにより、各地でさまざまな商品が不足し、価格高騰が起きてしまったのです。
1970年代に起こったインフレの原因をみていきましょう。1970年代にはオイルショックと呼ばれる原油価格の高騰が2度も引き起こされました。しかし、原油価格の高騰は当時のインフレの主犯ではなかったのです。
東京大学名誉教授の小宮隆太郎氏によると、オイルショック発生の前夜には、すでに日本の消費者物価が14%上昇していたようです。物価上昇に加えて、さらに原油価格の上昇が発生したため、人々は今後さまざまな商品価格が上がっていくだろうと予想しました。人々の中では、商品の値段が上がる前に確保しておこうと買いだめが起こり、結果としてインフレが加速してしまったのです。インフレはこのように、人々の予測によって起きます。
グローバリゼーションは先進国のインフレ率を低い水準に抑えた要因の一つです。しかし、パンデミックによる供給網の機能不全を経験した企業は、グローバルな生産体制を見直そうとしています。たとえば米国であれば、生産拠点を米国国内やカナダ、メキシコなどの友好関係のある近隣国に移転する動きが見られます。グローバル展開する米国企業の経営者を対象に行った調査によると、92%の企業が数年のうちに生産拠点移管を計画していることがわかりました。
グローバル化は”徹底的なコストパフォーマンスの追求”、そのために世界のどこにでも進出しようという考え方でした。対して現在動きを見せている「脱グローバル化」は供給網の安全性と安定性を重視し、コストパフォーマンスが多少犠牲になってもやむを得ないという考え方です。「脱グローバル化」が進めば、製造コストの上昇にともない製品価格も上昇していくため、先行きのインフレ率を高めていく可能性があります。
2022年頃からモノやサービスの値上げに関する情報を目にする機会が増えてきました。パンデミック以前と比べて日本のインフレ率は高くなったという認識を持っている人が増えてきたのではないでしょうか。
しかし、IMF(国際通貨基金)が2022年4月にまとめた各国のインフレ率ランキングを見ると、日本は192カ国内で最下位となっています。米国のインフレ率は7.68%、英国は7.41%、韓国は3.95%に対して、日本は0.984%と1%にも満たないと予想されているのです。
多くの中央銀行はインフレ率2%を目標値としています。他国が2%を上回る問題に対して、日本は2%を下回る圧倒的に低いインフレ率なのです。
次に日本の消費者物価を見ていきましょう。消費者物価とは、世の中で売り買いされているさまざまな品目の値段を集めて作られたもので、シャンプーなどのモノや理髪料金などのサービスが含まれています。2022年6月の資料を見るとガソリンなどのエネルギー関連の品目は海外発のインフレが国境を超えて侵入し、前年比10%を越す「急性インフレ」をおこしています。
一方で約4割のモノ・サービスは昨年と価格が変わりません。日本企業の価格据え置き慣行は1990年代後半からいまもなお続いており、「慢性デフレ」も問題となっているのです。
現在の日本では「急性インフレ」と「慢性デフレ」という2つの問題を抱えています。この状況で金融引き締めを行えば、急性インフレには効果があるものの、慢性デフレに対しては更に悪化させてしまう可能性があるのです。
日本経済では「低すぎるインフレ予想」「値上げ嫌い」「価格据え置き慣習」が問題となっていましたが、パンデミックによっていずれも好転の兆しが現れてきています。英国・米国・カナダ・ドイツ・日本の5カ国の消費者を対象として、2021年8月に行われた調査では、日本人のインフレ予想の低さと値上げ嫌いの強さが見て取れました。
しかし、2022年5月に行われたアンケート結果を見ると、米欧の消費者とほとんど見分けがつかないくらいにインフレ予想が上がったのです。また、値上げ嫌いの調査についても同様に、米欧の消費者と遜色ないほどになっており、日本の消費者の値上げ嫌いは大きく変化しました。
(1)スタグフレーションの到来
スタグフレーションとは、景気悪化とインフレが同時進行することです。つまり日本は、景気と物価の悪いところだけを集めたような状態に陥る危険があるのです。
スタグフレーションに日本が突入すると、過去の不況期と同様に、値上げ嫌いのギアが上がり価格据え置き慣行が今以上に広がる可能性があります。企業は賃上げの余力がなくなり、賃金の引き上げどころか賃金の引き下げすらあるかもしれないのです。
(2)慢性デフレからの脱却
慢性デフレの根本原因は日本消費者のインフレ予想の低さにありました。しかし、2022年5月のアンケートでは、インフレ予想は高まり、値上げ嫌いも大きく改善し始めました。
次は企業が価格据え置き慣行を終わらせ、商品価格を上げられるか否かが最初のハードルですが、こちらは既に変化の兆しがあります。そのため残るハードルは「企業が賃上げに前向きに取り組むことができるか」どうかです。
最後のハードルをなんとかして乗り越えることができれば、日本は慢性デフレから脱却できるでしょう。
米欧が今後の展開でもっとも懸念しているのは、物価上昇が賃金上昇を呼び、更に物価上昇を起こすという事態です。この状況は「賃金・物価スパイラル」と呼ばれ、螺旋階段を上るように賃金と物価が上昇していき、インフレがより対処困難となることを意味します。
現在の米欧は「賃金・物価スパイラル」の条件が整っていると言ってもいい状況です。もし実際に起こってしまった場合にも、需要を冷やす方法はあります。しかし、労働者や企業の権利が侵害され、市場メカニズムが阻害されるという否定的な見方のある、かなり強めの対策が必要となる可能性があるのです。
日本には米欧のように、賃金と物価が上昇し続ける心配はありません。しかし、賃金・物価スパイラルは日本もまったくの無関係ではないのです。米欧では賃金と物価が手を取りあって上がっていく懸念があるのに対し、日本では賃金と物価が動かず、手を取り合って凍り付いている状況なのです。凍りついている賃金を解凍するための鍵は以下の3つです。
(1)物価が上がるという予想が人々の間で共有され、生活を守るための賃上げ要求は正当であるという理解が社会に広まるか
(2)賃上げにともなう人件費の増加分を価格に転嫁できると企業が考えるか
(3)労働需要の逼迫が日本でも起こるか
賃金解凍がなされ、日本版賃金・物価スパイラルから抜け出せるかどうかが今後の私たちにとって大きな分かれ道となるのです。
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この書籍では、今世界で同時進行しているインフレの深刻な謎に迫ります。多くの誤解を解きながら、見落としがちなファクターをも指摘していきます。そして本書では今後、日本がどうインフレに向き合うべきかを真摯に説いています。知識を身につけていきたい投資家の方やビジネスパーソンにもおすすめの一冊です。- 田嶋 智太郎 -