本書ではビジネスコンサルタントの細谷功が、「具体⇔抽象」の概念を身近な例を用いて解説しています。
「具体⇔抽象」の概念が我々の生活でどういった働きをしているのか、そうした仕組みを知ることで、発想力や理解力の向上にも繋がるでしょう。
ここでは本書より一部内容を抜粋して紹介します。
「具体」という言葉が最も用いられるのは、何かをわかりやすく説明するときに、「具体的に言うと……」とか、相手の話がよくわからないときに「もう少し具体的に話してもらえませんか?」といった場合でしょう。逆に「抽象」という言葉が用いられる場面は、「あの人の話は抽象的でわからない」といった文脈だと思います。このように、具体=善、抽象=悪という印象はとんでもなく大きな誤解です。
人間が頭を使って考える行為は、実はほとんどが何らかの形で「具体と抽象の往復」をしていることになります。つまり、「具体化」と「抽象化」が、人間しか持っていない頭脳的活動の根本にあるということなのです。
言葉や数を自由に操れる、それによって知識を蓄積し、科学のように役に立つ体系的な理論として構築し、再現可能にすることでさまざまな「道具」を発展させて活用できる……このようなことが動物と人間を異なる存在にしているといってよいでしょう。
その中でも言葉や数を操れることが、人間の知能の基本中の基本でしょう。言葉がなければ、コミュニケーションも知識の伝達も不可能です。さまざまな道具や紙、技術を発展させ、伝承させることができたのも、言葉や数(や記号)によってそれらを記述し、記録することができたからです。
言葉と数を生み出すのに必要なのが、「複数のものをまとめて、一つのものとして扱う」という「抽象化」です。言い換えれば、抽象化を利用して人間が編み出したものの代表例が「数」と「言葉」です。日常的に何気なく使っていながら、人間の知能の「すごさ」を最も象徴的に表すのが「抽象化」です。
抽象化とは一言で表現すれば、「枝葉を切り捨てて幹を見ること」といえます。文字どおり、「特徴を抽出する」ということです。要は、さまざまな特徴や属性を持つ現実の事象のなかから、他のものと共通の特徴を抜き出して、ひとまとめにして扱うということです。
「細部を切り捨てて特徴を抽出する」といえば、物まねや似顔絵を思い起こします。思わず笑ってしまったり感心したりするような物まねや似顔絵は二通り考えられます。一つは文字どおり「写実的」ですべてが本物そっくりなもの。つまり具体レベルで似ているというもので、もう一つが、どこが似ているのかわからないのに似ていると思わせるもの、つまり特徴がデフォルメされて見事に表現されているものです。
抽象化とは、このような「デフォルメ」です。特徴あるものを大げさに表現する代わりに、その他の特徴は一切無視してしまう大胆さが必要といえます。
たいていの言葉は、目に見える物理的世界で用いられる場合と、比喩として精神的世界で用いられる場合があり、二通りの使い道があります。たとえば、(ボールを)「投げる」という物理的動作を「あきらめて放棄する」という抽象概念と結びつけ、同じ「投げる」という言葉を使うのです。このように、「体の動き」を「心の動き」になぞらえる考え方は日本語にかぎらず他の言語にもあり、これは人間が本来生まれながらに持っている「感覚」というものなのでしょう。
このように、単に目に見える具体的な世界で起こっている事象を精神的な世界にも拡大して(あるいは「目に優しい」のように精神世界の表現を物理世界に逆方向に拡大して)思考の世界を広げられるというのが人間の脳の優秀なところです。
抽象化の最大のメリットとは何でしょうか? それは、複数のものを共通の特徴を以てグルーピングして「同じ」と見なすことで、一つの事象における学びを他の場面でも適用することが可能になることです。
つまり「一を聞いて十を知る(実際には、十どころか百万でも可能)」です。抽象化とは複数の事象の間に法則を見つける「パターン認識」の能力ともいえます。身の回りのものにパターンを見つけ、それに名前をつけ、法則として複数場面に活用する。これが抽象化による人間の知能のすごさといってよいでしょう。具体レベルの個別事象を、一つ一つバラバラに見ていては無限の時間がかかるばかりか、一切の応用が利きません。一般に「法則」とは、多数のものに一律の公式を適用でき、それによって圧倒的に効率的に考えることを可能にするものです。
何が具体で何が抽象かというのは、絶対的なものではなく、お互いの関係性で成り立つものです。つまり、「具体と抽象」という言葉自体が「相対的な関係性」を示す概念であって、絶対的な具体性や絶対的な抽象性があるわけではありません。
たとえば、「おにぎり」は具体的な表現でしょうか? それとも抽象的な表現でしょうか? 「おにぎり」という言葉は、「鮭のおにぎり」「おかかのおにぎり」「明太子のおにぎり」を抽象化した言葉としてとらえることもできますし、「食べ物」を具体化した言葉としてとらえることもできます。つまり、「個別のおにぎり」→(抽象化)→「おにぎり」→(抽象化)→「食べ物」……というふうに、具体抽象という関係は、どこまででも続けていくことができるのです。したがって、Aさんが具体的だと考えていることは、Bさんにとってはちっとも具体的だと思えないこともあります。その逆もまた真なりです。
世の「永遠の議論」の大部分は、「どのレベルの話をしているのか」という視点が抜け落ちたままで進むため、永遠にかみ合わないことが多いのです。「変えるべきこと」と「変えざるべきこと」の線引きを抽象度に応じて切り分けることで論点が明確になります。また一見、反対のことを言っているように思われる「意見の対立」も、「違うところを見ていただけ」である可能性も高いのです。
抽象は、「解釈の自由度が高い」ことを意味します。小説が映画化された場合、映画よりも先に小説を読んでいると、「イメージの違い」に驚くことがあります。一般的に本(文字)の表現のほうが抽象度が高いので、人によってまったく異なる解釈(頭の中での具体化、イメージ化)をしている可能性がありますが、映画の場合にはその可能性は相対的に少なくなります。
抽象概念は、「受け取る人によって好きなように解釈ができる」ということです。「グローバルな人材が必要だ」というメッセージを受けて、英会話学校の人は「だから英語を学ばなければならない」と思うでしょう。あるいは「国際化担当」の人であったなら、「だから海外との交流が必要だ」、伝統芸能に関わる人は「だからこそ日本のことをよく知らなければならない」と解釈します。この「自由度の高さ」は、「具体派」の人から見れば、「だからよくわからなくて困る」という否定的な解釈になり、「抽象派」の人から見れば、「だから想像力をかきたてて、自分なりの味を出せる」と肯定的な解釈になります。
およそ仕事というものは「抽象から具体」への変換作業であるといえます。いわゆる仕事の上流、つまり内容が確定していない「やわらかい」企画段階から概要レベルの計画ができて、詳細レベルの計画になり、それがさらに詳細の実行計画へと流れていきます。
注意すべきは、上流の仕事(抽象レベル)から下流の仕事(具体レベル)へ移行していくにともない、仕事をスムーズに進めるために必要な観点が変わっていくということです。最上流と最下流ではほぼ「違う仕事」といってもいいほど、必要な価値観やスキルセットが変わってきますが、徐々に移行していくこともあって、明確にこのことが意識されることはあまりありません。そして、最上流と最下流では、ほぼ正反対の価値観といってもいいくらいまでの違いがあります。
このような「仕事の質の違い」は、日々のオフィス環境や上司・部下の関係での仕事の進め方にも影響するはずです。しかし実際は、組織の職場環境はおおむね「下流」の考え方に最適化されています。それは前述のとおり「仕事の量も人数も多く、万人にわかりやすいもの」が求められるからです。
哲学、理念、あるいはコンセプトといった抽象概念がもたらす効果は、個別に見ているとバラバラになりがちな具体レベルの事象に「統一感や方向性」を与えることであり、いわばベクトルの役割を果たしているのです。
哲学のレベルで方向性が共有されていれば、個別に見える案件もすべてその大きな方向性に合致しているかどうかで判断でき、効率的です。大きな方向性や将来のビジョンを決定する上でも、必要なのは「抽象化能力」です。「要するに自分たちはどうしたいのか?」を考えることが、大きな方向性を決定するには不可欠だからです。個別の行動の判断に困ったときの拠り所となるのも、「最終的に何を実現したいか?」という長期的な上位目的です。
事象を具体レベルのみで見ているか、具体と抽象を結びつけて考えているかは、たとえば五〇〇ページの本を「短時間でかいつまんで説明」してもらうとよくわかります。
抽象化して話せる人は、「要するに何なのか?」をまとめて話すことができます。膨大な情報を目にしても、つねにそれらの個別事象の間から「構造」を抽出し、なんらかの「メッセージ」を読み取ろうとすることを考えるからです。重要なことは、膨大な情報を目の前にしたとき、その内容をさまざまな抽象レベルで理解しておくことなのです。
重要なのは、「計画と行動」における具体と抽象のそれぞれの特徴と長所・短所を知った上で、両者をうまく使い分け、使いこなすことです。
よく議論されるテーマとして、新しい行動を始めるのに「形から入るか、中身から入るか?」があります。趣味の世界でいえば「道具から入るか」「うまくなってから道具を買うか」ということです。数値目標や「形式をしばる」のは具体レベルでの目標設定にすぎないので、時に「本末転倒」が起こりますが、「実行重視」の人ならばその心配はありません。そんなことは百も承知の上で、あえて「形から入る」ことを確信犯で選択します。「抽象的な理想論」はその場では格好良く見えても、結局は実行につながっていないことがよくあるため、そのほうが行動に直接つながることをよく知っているからです。
具体と抽象は、常にセットで全体を見て、それらを連係させた上で計画と実行のバランスをとっていくことが重要なのです。
抽象度の高い概念は、見える人にしか見えません。抽象化というのは、残念ながら「わかる人にしかわからない」のです。周囲に「わけのわからないことを言っている」と感じる人はいませんか? もしいたとしたら、こんなふうに考えるだけでも、仕事のやり方や世の中の見方が変わってきます。
具体の世界と抽象の世界は、いってみればマジックミラーで隔てられているようなものです。上(抽象側)の世界が見えている人には下(具体側)の世界は見えるが、具体レベルしか見えない人には上(抽象側)は見えないということです。「抽象的でわからない」と言うのは、「小金持ちが大金持ちを笑う」ようなものです。人間は一人残らず抽象概念の塊なのですが、自分の理解レベルより上位の抽象度で語られると、突然不快になるという性質を持っているようです。
抽象化というツールは、一度手にしたらなかなか手放すことはできず、元にもどることは難しいという性質があります。「言葉を使わずに生活してみよ」と言われたらどうなるのか。「言葉を使わない」ことは、単にしゃべれないだけでなく、他に重要な意味合いを持ちます。ジェスチャーだけでは抽象的な表現をするのは困難です。言葉を封じられることは、抽象思考を封じられることを意味します。そもそも「抽象論はわからない」とか「一般化しすぎはよくない」と言っている「具体論者」も、「抽象論は……」とか「一般化しすぎは……」というそのセリフ自体が相当な「一般論」であることに自分自身で気づいてもいません。
高い抽象レベルの視点を持っている人ほど、一見異なる事象が「同じ」に見え、抽象度が低い視点の人ほどすべてが「違って」見えます。したがって抽象化して考えるためにはまず、「共通点はないか」と考えてみることが重要です。当然ここでいう共通点は「抽象度の高い共通点」です。
経験した世界が狭ければ狭いほど、他の世界のことがわからないにもかかわらず、自分の置かれた状況が特殊であると考える傾向があります。多種多様な経験をすればするほど、「ここの部分は違うが、ここの部分は同じだ」というふうに共通部分にも目が向けられるようになってきます。
重要なのは、「抽象化」と「具体化」をセットで考えることです。これらは一つだけでは機能せず、必ずセットになって機能します。福沢諭吉は「高尚な理は卑近の所にあり」という言葉を残しています。まずは徹底的に現実を観察し、実践の活動を通して世の中の具体をつかみ、それを頭の中で抽象化して思考の世界に持ち込む。そこで過去の知識や経験をつなぎ合わせてさらに新しい知を生み出したのちに、それを再び実行可能なレベルにまで具体化する。これが人間の知とその実践の根本的なメカニズムということになると考えられます。
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「具体度」と「抽象度」との合致というのはあらゆるところで重要となります。例えばAIのような新しい技術を使いこなす場合も、この概念が分かっているかいないかが大きく関わってくるでしょう。全てのビジネスパーソンがこれからの時代にこそ読むべき一冊です。- 岡崎 かつひろ -